軍隊の被害−第二総軍司令部


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 第二総軍司令部(大須賀町の元騎兵第五連隊跡に設置)は、約400人の人員を擁していた。その中には、暗号翻訳作業に従事していた比治山高女・女学院の生徒80人、兵要地図班の広島高師の動員学徒13名も含まれている。ここは、原爆爆心地からほぼ1.7キロメートル地点に位置するが、100名前後の死者が出た。

終戦後、海田市の日本製鋼に移る。9月上旬、司令部は大阪に移動して西日本にある陸軍部隊の復員を実施。


「証言」より

畑俊六(73033103)

「俄然8月6日朝原爆攻撃を受け、総司令部に於いては参謀副長真田少将を始め多数の負傷者を出し参謀李*公中佐は戦死し其他若手に於て若干の戦死者を出したるも大なる損害なく、庁舎は焼失したる為予て司令部東側双葉山に構築しありし半成の地下構造物に移り漸く業務を開始したり。

 原爆を投下せられたる瞬時は一時ボッとしたるも、直に活動を開始し能く各方面との連絡を保持し、中央並に隷下部隊との連繋を確保し得たるは全く幕僚の活躍に依るものと確信す。」


岡崎 清三郎(770130)

「総軍司令部の死者は、100名を越えた」。


平野斗作(70090101)

「原爆攻撃に対しても十分な対策が可能であると信じて、原爆が命取りになろうなどとは軍部でさえ考えてもいなかった。それよりも、軍に致命的ショックをあたえたのは、、8月9日のソ連の参戦だった。これで日本が勝つ望みはまったく失われた。これで万に一つの僥倖もなくなった。」


上田 忠則(76123301)

二葉山麓・松本代議士別邸にあった畑司令官の命を受け、暁部隊馬木送信所を利用し、10時過ぎに報告。

午後1時過ぎ司令部の定位置を正門前とし天幕を張る。


美甘(みかも) 照雄(81100101)

8月6日現在第二総軍司令部の在籍者は軍人軍属を会わせ約420〜30名で、第二総軍に籍はないが例えば大本営通信隊とか、他部隊から一時的な諸勤務に就いていたもの等を含めれば400数十名が服務していた。内爆死或いは建物とともに焼死したものが120〜30名、重傷者として己斐、三篠、可部、戸坂等の陸軍病院臨時分院に収容されたものが約170名、どうにか入院しないで勤務に堪え得るもの約130名が司令部周辺に分散していた。


書名 著者 メモ
69 08 06 炎のなかに−原爆で逝った級友の25回忌によせて 秦 政子 比治山高女教師。4年生菊組40名の動員学徒を引率。第二総軍司令部で被爆。
70 09 平野 斗作 第二総軍司令部兵参謀。7日夕刻AT機(小型輸送機)で東京から江波飛行場に帰着。直後に司令部内で描いたキノコ雲の写真あり。司令部で約70名が死亡。西練兵場の救護状況。原爆症。
70 12 20 原爆前後4 東島 輝夫 昭和18年5月2回目の応召で皆実町の暁船舶通信隊の入隊。まもなく、三原分屯隊勤務。20年6月20日、第二総軍司令部の指揮下に入り、ケーブル埋設作業の応援隊として三原から100人が出動。自室で被爆。
73 03 31 広島県史・近代現代資料編T 畑俊六 第二総軍司令官。
76 08 15 終戦秘史・有末機関長の手記 有末精三 8日早朝、大本営調査団長として来広。
76 12 33 原爆下の司令部 上田 忠則 第二総軍司令部参謀部通信班、大尉。管内の陸海空軍、逓信・鉄道などの通信担当者を召集して8月6日に広島偕行社で開催予定の軍官民会同通信会議の管理部長。
77 01 30 天国から地獄へ−南方進攻作戦の栄光と戦犯死刑囚の屈辱 岡崎 清三郎 第二総軍参謀長として7月31日着任。宿舎の上柳町の島津邸で被爆。原爆症。
85 06 09 被爆体験記・くずれえぬ平和を−結成30周年記念誌 入江 寛 広島高師動員学徒。他の12名とともに動員先の第二総軍司令部兵要地図班で被爆。
87 08 12 丸−エキストラ版(18巻4号) 平野 斗作 第二総軍兵站参謀


軍関係(厚生省援護局資料)
第二総軍司令部「戦没者名簿」
第二総軍司令部「死没者ニ関スル綴」
第二総軍司令部「死亡診断書調整資料」
第二総軍司令部「昭和二十年八月六日遺骨遺留品名簿」
第二総軍「人事(恩典)に関する綴」
(第二総軍司令部)「昭和二十年八月六日における第二総軍 司令部防衛通信班人名表」


『本土作戦記録・第二総軍』(第一復員局、1946.10)[抄]

[防衛庁防衛研究所蔵]

第12章 原子爆弾被爆及終戦の経緯

第1節 原子爆弾の被爆

 7月下旬より8月初頭に互り総軍は前述せる新情勢判断の下作戦計画の修正、総軍決戦綱領の策定、之に伴ふ大本営との連絡も終了し、8月9日より両方面軍司令官を広島に会同し以て作戦準備並実施に関する最後の会同を実施すべく、之が準備中の所8月6日午前8時10分頃真に突如原子爆弾の攻撃を受けたり。被弾直後の印象は高々度より司令部に対し爆弾及焼夷弾の集中爆撃を受けたりと思考せるも、時間の経過と共に被害逐次判明、午前10時頃予て準備中の戦闘指揮所に移転するに及び炎々たる猛火に包もれたる全市街の被爆の様相を望見し、茲に特殊爆弾に非ずやとの疑問を懐き直ちに大本営に対し右所見を付して状況を報告せり。

 本攻撃に依り全市街及軍管区司令部以下軍隊も殆んど一挙に大打撃を受けたるも総軍司令部のみは比較的損害軽微(司令部の戦死80数名入院多数)なりしを以て、直ちに船舶司令部及地方総監府以下の地方機関と連絡、8月7日総軍司令官は独断広島近郊の総軍隷指揮下外部隊及地方側機関を指揮し戦災者の救護、戦災地の整理復旧並広島周辺の治安等に関し一時指揮すべき命令を下達(実行動は6日直ちに採れり)し、船舶司令官をして之が実行を担任せしめたり。  

 広島の状況は真に言語に絶し死者8万を超え爆心地付近は一木一草を留めず屍死累々として目を蔽ふの惨状を呈せり。

第2節 終戦の経緯

 総軍は原子爆弾の被爆が帝国戦争指導を左右すべき因子なりとは思考せず且又原子爆弾に対しては対策宜しきを得ば之を克服し得べしとの印象と強き敵愾心に依り、幸に微傷だにせざりし総軍司令官の下、小数の残存幕僚を以て鋭意司令部の恢復に努めつつ、方面軍司令官会同準備を続行せり。

 然るにも12日頃大本営より「帝国政府は連合国に対し和平交渉中」との主旨の電報に接せり。次て13日畑元帥に至急上京の招電あり。元帥は15日帰任し、陛下の和平に対する鞏固なる団結と至厳なる軍紀を確保して大御心に副ひ奉らんことを期すべしとの主旨を伝達し、直ちに両方面軍参謀長を招致して此の主旨の徹底方を命令せり。

 斯くて8月15日正午遂に終戦の大詔を拝し茲に総軍の作戦は終結せり。


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